民主政治について...その3

 民主政治について3回目というわけですが,また以下のトクヴィルアメリカのデモクラシーについて話をしたいと思います。

  この本の中で最も有名と思われるフレーズが「多数者による専制the tyranny of the majority)」だと思います。日本語では,よく数による暴力などとも言われますが,民主政治の根本規範といってもいい多数決による判別にはこの「多数者による専制」が内包されていることを指してこのように言っている。特に,日本の教育においては,民主政治を唯一無二の神聖な存在かのように扱っており,政治の枠を超えて,会社,学校などの各組織においても取り入れられている。そして,民主政治が行われている組織では多くの賛成を得た意見や考え方を採用する「多数決の原理」が採用されている。ここで注意しなければならないことは,多数決によって採用された意見が必ずしも正しいものであるという保証はどこにもないことである。ではなぜ「多数決の原理」が採用されているのか?その理由は単純で,民主政治はこのようにしないと何も決められない(何もできない)から仕方なく採用しているだけの話である。これを勘違いして,多数の意見を得た自分の意見は正しいとする人が多く存在しているのである。トクヴィルは,このように行われる政治は単に多数者が専制政治を行っているに過ぎないと言っているわけであり,だからこそ民主政治を嫌々と受け入れるしか無いという風に捉えている。
 特に最近の政治家は,「数こそ正義である」といい,多数の意見を得られる政策を掲げるばかりの人たちである。このような政治手法をポピュラリズム(厳密にはポピュリズムとは違う),または大衆迎合主義というが,ここ30年の日本の政治は特にこれが歓迎されている。これは全く馬鹿げた話であり,大抵ポピュラリズムによって決まった政策を実施し,成功しなかった場合は「あなた達が選んだんですよ」言い逃れをし,成功した場合は「私の考えは正しかった」誇張するという始末である。
 また,前回言ったとおり平等を目指す民主政治においては皆が忙しく,政治について考える際にマスメディアからの情報の影響を受けてしまうこの情報社会においては,マスメディアを通して特定の人物や組織の意見を多数者の意見として仕立て上がることも容易である。
 だからこそ我々は,「多数決の原理」にどれほどの価値があるのかを今一度考え直す必要がある。私も民主政治においては「多数決の原理」に基づいて,政治を進めるしかないとは思うが,少数になった意見に十分に耳を傾ける必要があるのではないかと考える。会社みたいな小さな組織であれば,多数決の原理で物事を決めてもらっても構わない(私は絶対にいやだが),なぜなら潰れても困らないからである。しかし,国などの政治において「多数決の原理」に従ったから間違いないという判断をするやり方は絶対にしてはならない,政治を正しく運用するには議論を積み重ねるしかない。議論を続けるということは,エネルギーや知識,忍耐を必要とし,政治家にこそこれらの「議論力(※論破力ではない)」を必要とするべきであり,見た目や派手さではないと私は考える。(有名人だから政治家になるというは本当に無意味)

 ここ3回は,トクヴィル著「アメリカのデモクラシー」を取り上げて,記事を書いた。トクヴィルは,自分のことを「保守」とは明確には言っていない(保守という概念がまだ定着してなかったのかもしれない)が,以前取り上げたエドマンド・バークの影響を多く受けているのは間違いない。なぜなら「アメリカのデモクラシー」で,トクヴィルは政治を行う上で,急激な変革はしてはならないと語っており,これはフランス革命後にエドマンド・バークが言ったことと同じであり,トクヴィル保守主義者であることを示している。このような偉人たちに少しでも近づくには,やはり保守主義を目指すことが必要であると私は考える。

民主政治について...その2

 前回からの引き続きで,民主政治についてトクヴィルの著書を踏まえて話をしたいと思います。

  前回,民主政治な国家の国民は忙しくなると指摘していると言ったが,これに合わせてトクヴィルはそのような国民は,政治について考える暇(時間が)なくなると指摘している。それでも,自分たちの人生を左右する国家の運営に全く携わらないわけにはいかないわけで,そこで重要な役割をするのは新聞であると指摘している。今では,新聞に加え,TV,ネット(SNSも含む)などのマスメディア郡がこの役割を担っている。トクヴィルは,このマスメディアの役割が民主政治において非常の重要であり,マスメディアが正しく機能しない場合について危惧をしていた。現在の日本では,このマスメディアが全くと行って正しく機能しているようには思えない。ただこれは,マスメディアが一概に悪いのではなく,それを許している国民がもっとも悪いのだと私は思う。特に最近の新聞などがとりあげる記事の内容がひどいの一言につきる。「記事は足で稼ぐ」と言われていたが,まったくもってそのような記事が無くなっている。下手をするとネットやSNSで見つけた内容をそのまま書いただけという記事もよく散見される。また,政治になどについても提灯記事や政府発表そのまま記事が殆どで,その記者自身の視点でのコメントなどすらまったくない記事も多い。ではなぜ,このようなマスメディアが残り続けているのかというと,それは国民がそれを許しているからである。マスメディアは信用していないと言いながら,テレビをつけている人はどのくらいいるだろうか?新聞をとっているひとはどのくらいいるだろうか?雑誌が採り上げる特集記事を見て行動しているひとがどのくらいいるだろうか?すべてを遮断して生きろというわけではなく,それらについて常に懐疑的な考えをもって生活するべきだと私は言いたい。またネットやSNSこそ,注意しなければないと思う。またネットから得られる情報は,一見自分から求めた能動的なものと思ってしまうが,例えばキーワード検索した結果の一覧が出た時に,そこに他者の意思が介入していないという保証は全く無いわけで,だからこそ注意が必要である。特に,今回のアメリカの大統領選挙では,FacebookTwitterなどが,トランプ元大統領のアカウントを停止する判断を行った。これは一見,大人な対応として見て取れるが,果たしてトランプ元大統領が発言していた内容の正否についてFacebookTwitterなどのSNS業者が判断していいものなのだろうか?一種の言論弾圧になるのでは無いだろうか?自由を掲げる国として正しい対応だったのだろうか?このようにネットが重要なマスメディアとして機能しているからこと,我々は自分でしっかりと物事を考えて生きていかなければならない。

とりあえず今回も途中ですがお開きにしたいと思います。

民主政治について...その1

 民主政治について,今一度考えてみたいと思い,19世紀のフランス政治家のトクヴィルの著書を読んだ。二巻かつそれぞれ上下巻となっており計4冊になる大ボリュームだったが非常に有意義な内容だった。 

 この著書は,1830年頃にアメリカを訪れたトクヴィルが,そこで行われている民主政治について,フランスやイギリスとの違いや民主政治の行く末などについて書かれている。タイトルからすると,アメリカの民主政治は素晴らしいものであると持て囃す内容であると思ってしまうが全くそうではない。この著書の中でトクヴィルは,人々が平等と自由を実現するためには民主政治が必要であり,階級制度が存在する専制政治ではその実現は難しいと述べている。しかし民主政治自体に全幅の信頼を寄せているわけではなく,どちらかというと民主政治に内在する危険性と嫌々付き合っていくしか無いという風に書かれている。
 その中で特に面白と思ったのは,平等をもとめる民主政治の国民は皆忙しくなるという指摘である。トクヴィルは,訪れた当時のアメリカは,それまでに見たことが無いまでに皆が忙しくしている国であると言っている(今の日本人からするとそうでもないけど…)。忙しくなる理由として,階級制度が存在する社会においては,一位を目指そうとするよりもその身分を維持するまたは少し上に上がるだけで満足できるが,皆が平等な民主政治な国では認識出る階級は存在しないので常に自分が下にいるのではないか?という危機感を覚えその状態に満足できないからであるとトクヴィルは言っている。これをみて私が思ったのは現在はむしろ資産という価値観で階級制度ができているのでは?と思った。お金という単位(日本だと1円単位)で,人々を階級分けするならばほぼ無段階での階級制度であり,自分の周りの人が持つ資産を大まかに予想することができるが目に見えて認識することはできないので,常に自分が下にいるのではないか?という危機感を覚え,現代社会の人々が忙しくしていると思うと現代の日本はそういう意味では民主政治が進んだ国になってしまったのではでしょうか?とりあえず今回はここでお開きです。

 次回もまたトクヴィルネタです。

保守について

 ここ最近,暇なので保守について改めて考えてみた。保守という思想が明確に体系化されたのはやはり,エドモンド・バークフランス革命のその野蛮さに異を唱えた頃からと言われている。またこのときバークは,フランス革命がどのような結末に至るのかを予言したとされている。

 さて,今の日本にはこの保守を正確にとらえて,実現できている人がどのくらいいるのだろうか?

 日本の場合は,~~を信仰していれば,~~を行っていれば保守といったように外見的なものにその判断基準に重きが置かれていることが多く,特にメディアやネットなどでよく散見される。でも,これはバークを始めとした保守言論人たちがいう保守とはまったく違った考え方だと思う。そもそも,保守を辞書で引いてみると,文字が示すように「風習や伝統などを守るという意味なので,~~を信仰していれば,~~を行っていればというのも保守という意味としては合っているのだが,これはあまりにも表面的なところでしかなく,本当は内部的な価値観を理解しそれを「保ち守る」必要があると思う。なので,偉大な保守言論人の多くは,変わること自体に否定ではなく,変わる時に何を残すべきななのかを粘り強く熟考できる人たちである。しかし近年は,何かとスピード感が大事だの,合理的な議論が必要だのといって考えること自体をバイパスするようなことが非常に多いと思う。確かに,会議などにおいて無駄なものを多くなっているのも確かである。例えば,コンセンサスを取ることをはじめから目的とする会議や首長が責任を取りたくない(責任を分割または他者に押し付けるため)の会議などは私も本当に無駄だと思う。だが,今起こっている問題や危機を解決するための会議には十分な議論が必要であり,そのためには多くの時間を使っての会議は必要だと思っている。

 近年は,~~改革,~~革命といったように,構造的に変えれば,問題が解決するだろうといった短絡的な思考をする人が多くなった。このような人たちを,ビジネス書を始めとした多くのメディアがビジネスセンスがあると持ち挙げている。しかも,このビジネスセンスは政治までに必要だと言う人達も多くいる。私自身,他人の会社などが改革的に物事を進めて行くこと自体には,否定しない。なぜなら,自分の会社なければ潰れても困らないからである。しかし,国家になると話は違う,だから国家が潰れてしまうかわからないのに,革新的なことを進めてもらうことは非常に困る。別に私は,「ずっと変わらないでくれ」っと行っているのではなく,変わることを熟考してくれと言っているのである。

 木の成長を思い浮かべてほしい。もし木の成長に問題が発生した際に,木を根本から切るまたは引っこ抜く人はどのくらいいるだろうか?こんなことをしていたら,成長できるものもまったくできない。悪い部分は修正するために,剪定したり保護したりするのが普通じゃなかろうか?今,日本で起こっている政策の多くは,もともと日本に生えていた木(制度など)を根本から引っこ抜いて,米国や欧州などに生えていた木(制度など)もってきて,ただ置くだけの政策がほとんどである。もちろんこんな事していたら,その政策が成功するわけがない。しかも日本は,20年近く同じようなことをし続けて,多くの失敗をしているにも関わらず,米国,欧州に対して絶対の信頼を持った信仰をやめる気が全くない。

 最近の例をとるとEVへの転換などもこれに当たる。2035年までに,新車をすべてEVへ転換するという大きな政策転換を首相が大体的に発表しているが,政府はどこまでこの政策を熟考したのだろうか?私が考えるだけでいくつも問題点が出てくる。まず,エンジン部品を作っていたサプライヤーの今後あり方,EV部品の技術的問題,電気エネルギーの確保問題,ガソリン・軽油の消費量変化に伴う燃料価格の変化など上げればきりがないのだが,どこまで想定されているんだろうか?首相の発言はすごい影響力がある,人の命や人生がかかっているようなこのような政策を行うためにはより深い考慮が必要であり,そもそもEV政策は国や地域ごとで事情が違いすぎるのに,欧州に合わせてあっても日本に意味があるのだろうか?日本の自動車会社の競争力が問題になることは理解できる,ならばEVとHVをなるべく同じラインで製造できるようにそれらの増強・改良に向けた補助金を各自動車会社に出すなどの政策を取ればいいのではないでしょうか?(まぁ,緊縮財政の呪いがある限りこのような発想はないでしょうね)

 失った30年等と言われるが,いまの日本にこそ「保守」の思想が必要だと思う。早く,変えたいという気持ちはわかるが着実に良くなるように日本を保守的に変えていかなければならないときが来ているのではないだろうか?と思ったところです。