民主政治について...その2

 前回からの引き続きで,民主政治についてトクヴィルの著書を踏まえて話をしたいと思います。

  前回,民主政治な国家の国民は忙しくなると指摘していると言ったが,これに合わせてトクヴィルはそのような国民は,政治について考える暇(時間が)なくなると指摘している。それでも,自分たちの人生を左右する国家の運営に全く携わらないわけにはいかないわけで,そこで重要な役割をするのは新聞であると指摘している。今では,新聞に加え,TV,ネット(SNSも含む)などのマスメディア郡がこの役割を担っている。トクヴィルは,このマスメディアの役割が民主政治において非常の重要であり,マスメディアが正しく機能しない場合について危惧をしていた。現在の日本では,このマスメディアが全くと行って正しく機能しているようには思えない。ただこれは,マスメディアが一概に悪いのではなく,それを許している国民がもっとも悪いのだと私は思う。特に最近の新聞などがとりあげる記事の内容がひどいの一言につきる。「記事は足で稼ぐ」と言われていたが,まったくもってそのような記事が無くなっている。下手をするとネットやSNSで見つけた内容をそのまま書いただけという記事もよく散見される。また,政治になどについても提灯記事や政府発表そのまま記事が殆どで,その記者自身の視点でのコメントなどすらまったくない記事も多い。ではなぜ,このようなマスメディアが残り続けているのかというと,それは国民がそれを許しているからである。マスメディアは信用していないと言いながら,テレビをつけている人はどのくらいいるだろうか?新聞をとっているひとはどのくらいいるだろうか?雑誌が採り上げる特集記事を見て行動しているひとがどのくらいいるだろうか?すべてを遮断して生きろというわけではなく,それらについて常に懐疑的な考えをもって生活するべきだと私は言いたい。またネットやSNSこそ,注意しなければないと思う。またネットから得られる情報は,一見自分から求めた能動的なものと思ってしまうが,例えばキーワード検索した結果の一覧が出た時に,そこに他者の意思が介入していないという保証は全く無いわけで,だからこそ注意が必要である。特に,今回のアメリカの大統領選挙では,FacebookTwitterなどが,トランプ元大統領のアカウントを停止する判断を行った。これは一見,大人な対応として見て取れるが,果たしてトランプ元大統領が発言していた内容の正否についてFacebookTwitterなどのSNS業者が判断していいものなのだろうか?一種の言論弾圧になるのでは無いだろうか?自由を掲げる国として正しい対応だったのだろうか?このようにネットが重要なマスメディアとして機能しているからこと,我々は自分でしっかりと物事を考えて生きていかなければならない。

とりあえず今回も途中ですがお開きにしたいと思います。