保守について

 ここ最近,暇なので保守について改めて考えてみた。保守という思想が明確に体系化されたのはやはり,エドモンド・バークフランス革命のその野蛮さに異を唱えた頃からと言われている。またこのときバークは,フランス革命がどのような結末に至るのかを予言したとされている。

 さて,今の日本にはこの保守を正確にとらえて,実現できている人がどのくらいいるのだろうか?

 日本の場合は,~~を信仰していれば,~~を行っていれば保守といったように外見的なものにその判断基準に重きが置かれていることが多く,特にメディアやネットなどでよく散見される。でも,これはバークを始めとした保守言論人たちがいう保守とはまったく違った考え方だと思う。そもそも,保守を辞書で引いてみると,文字が示すように「風習や伝統などを守るという意味なので,~~を信仰していれば,~~を行っていればというのも保守という意味としては合っているのだが,これはあまりにも表面的なところでしかなく,本当は内部的な価値観を理解しそれを「保ち守る」必要があると思う。なので,偉大な保守言論人の多くは,変わること自体に否定ではなく,変わる時に何を残すべきななのかを粘り強く熟考できる人たちである。しかし近年は,何かとスピード感が大事だの,合理的な議論が必要だのといって考えること自体をバイパスするようなことが非常に多いと思う。確かに,会議などにおいて無駄なものを多くなっているのも確かである。例えば,コンセンサスを取ることをはじめから目的とする会議や首長が責任を取りたくない(責任を分割または他者に押し付けるため)の会議などは私も本当に無駄だと思う。だが,今起こっている問題や危機を解決するための会議には十分な議論が必要であり,そのためには多くの時間を使っての会議は必要だと思っている。

 近年は,~~改革,~~革命といったように,構造的に変えれば,問題が解決するだろうといった短絡的な思考をする人が多くなった。このような人たちを,ビジネス書を始めとした多くのメディアがビジネスセンスがあると持ち挙げている。しかも,このビジネスセンスは政治までに必要だと言う人達も多くいる。私自身,他人の会社などが改革的に物事を進めて行くこと自体には,否定しない。なぜなら,自分の会社なければ潰れても困らないからである。しかし,国家になると話は違う,だから国家が潰れてしまうかわからないのに,革新的なことを進めてもらうことは非常に困る。別に私は,「ずっと変わらないでくれ」っと行っているのではなく,変わることを熟考してくれと言っているのである。

 木の成長を思い浮かべてほしい。もし木の成長に問題が発生した際に,木を根本から切るまたは引っこ抜く人はどのくらいいるだろうか?こんなことをしていたら,成長できるものもまったくできない。悪い部分は修正するために,剪定したり保護したりするのが普通じゃなかろうか?今,日本で起こっている政策の多くは,もともと日本に生えていた木(制度など)を根本から引っこ抜いて,米国や欧州などに生えていた木(制度など)もってきて,ただ置くだけの政策がほとんどである。もちろんこんな事していたら,その政策が成功するわけがない。しかも日本は,20年近く同じようなことをし続けて,多くの失敗をしているにも関わらず,米国,欧州に対して絶対の信頼を持った信仰をやめる気が全くない。

 最近の例をとるとEVへの転換などもこれに当たる。2035年までに,新車をすべてEVへ転換するという大きな政策転換を首相が大体的に発表しているが,政府はどこまでこの政策を熟考したのだろうか?私が考えるだけでいくつも問題点が出てくる。まず,エンジン部品を作っていたサプライヤーの今後あり方,EV部品の技術的問題,電気エネルギーの確保問題,ガソリン・軽油の消費量変化に伴う燃料価格の変化など上げればきりがないのだが,どこまで想定されているんだろうか?首相の発言はすごい影響力がある,人の命や人生がかかっているようなこのような政策を行うためにはより深い考慮が必要であり,そもそもEV政策は国や地域ごとで事情が違いすぎるのに,欧州に合わせてあっても日本に意味があるのだろうか?日本の自動車会社の競争力が問題になることは理解できる,ならばEVとHVをなるべく同じラインで製造できるようにそれらの増強・改良に向けた補助金を各自動車会社に出すなどの政策を取ればいいのではないでしょうか?(まぁ,緊縮財政の呪いがある限りこのような発想はないでしょうね)

 失った30年等と言われるが,いまの日本にこそ「保守」の思想が必要だと思う。早く,変えたいという気持ちはわかるが着実に良くなるように日本を保守的に変えていかなければならないときが来ているのではないだろうか?と思ったところです。